消費される日常。

「大橋 仁 目のまえのつづき」

 テレビでよくある「大家族」モノのドキュメンタリーが苦手だ。

 何年にもわたって「ある家族」の日常を追い続ける形で構成されているドキュメンタリー。もちろん家族側の了承を得てのことだろうが、カメラは執拗に家族の日常を捉え、テレビ画面では数々のハプニングが展開される。

 意図的ではないにしろ、「家族」と視聴者の間に「カメラ」が割り込むことで、「家族」ひとりひとりの「個」そのものがぼやけて見える気がする。多感な時期を過ごしているであろう子供たちの「生活」がどうしても「リアル」に見えてこない。全てが「予定調和」な出来事に見えてきてしまい、あるはずのもうひとつの「この家族のリアルな生活」は蔑ろにされてしまっているような気がしてならない。


 先日、あるタレントの方が白血病で亡くなった。お笑い芸人としてスポットライトがあたった矢先の発病で、ひとり表舞台で活躍し彼の闘病生活を経済的に支える相方のエピソードは、確かに胸を熱くさせるものであった。しかし、この闘病生活の傍らで「ドキュメンタリー」としてカメラを廻し続けたTV制作者がいたと聞く。

 人は自分が弱っていく姿を他人に見せたくないものである。ましてや「人を笑わせ楽しませる芸人」という職業の当人が、日に日に弱っていく己の姿を不特定多数の人間に曝け出すことを意識しながら、闘病を続けていった心情はいかほどであっただろうと思う。莫大な医療費が掛かるこの難病を本人も気にかけていて、もちろんこの「ドキュメンタリー」も当人の了承を得てのことだろうが、そこにはもはや「美談」や「感動」は無く、この闘病生活と彼の周りに「金の匂い」を目ざとく嗅ぎ付けた偽ジャーナリズムの醜い姿しかない。平穏な(平穏な闘病生活などあり得ないが)ただ完治を目指すだけの闘病ならば、彼は命を落とさずに済んだかもしれないと思うと、反吐をつきたくなるほどの気分の悪さを感じざるを得ない。


 結局、僕らは「リアル」よりも「センチメンタルな悲劇」を好む傾向にあるのかもしれない。需要と供給。生存者がいるかもしれないにもかかわらず瓦礫の上に立って惨状のみをリポートし、ヘリで上空を旋回してその助けを求める声をかき消した阪神大震災当時のマスコミの例を出すまでもなく、僕らを取り巻くメディアの中の「リアル」は時間をかけて徐々に水で薄めたように希薄になっていく。「濃密な人間関係」を築く術を知らない次の世代を担うはずの子供たちは、弱い立場のホームレスを襲撃し、同じ世代をいじめという暴力で死に追いやる。



 ミュージシャンのジャケット写真なども手がける大橋仁の写真集「目のまえのつづき」は撮影者本人の「リアルな日常」を曝け出し、手にしたら最後、同じ目線でその「日常」に対面することを余儀なくされる。

 彼女との何気ない戯れ。他愛もない風景。そして病室に横たわる自殺未遂をした父親の姿。

 一見綺麗に見える表紙の写真は、血に染まったシーツである。

 荒木経惟の「センチメンタルな旅・冬の旅」も最愛の妻の最後を看取るという私小説ならぬ「私・写真集」だったが、その荒木をして「凄絶なり!」と言わしめた本作は、暴力的なまでに己の日常を切り取り、目の前に並べられた写真に、ただ圧倒されるのみである。

 写真集「いま」では、妊婦、病院の協力のもと1年8ヶ月に及び10人の出産の瞬間を撮影し、美しい光の中で無邪気に遊ぶ幼稚園児の姿を捉えることで、「命」の持つ意味を大胆に真正面から提示してみせる。



 人生を表す言葉はいろいろある。「人生は長い旅だ」とかなんだとか。だが日々を淡々と過ごすものにとって、人生はただの日常の連続に過ぎない。しかし大橋仁の「目のまえのつづき」と「いま」は、あらゆるメディアの枠をあっさりと飛び越えて、僕らの周囲に溢れる「リアルを装った日常」よりも、日々僕らが感じる個々の日常のほうがよっぽどリアルであること、そして何よりも大切であることをもう一度確認させてくれる気がする。<MORE RECOMMEND>
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STUDIO VOICE 特集 写真集の現在」

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目のまえのつづき

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