〜路傍の人〜里国隆「黒声(クルグイ)」

 昨年9月、兵庫県姫路市にある書写山円教寺において行われた「にじのわまつり」というイベントに参加した。円教寺は「西の比叡山」とも呼ばれる由緒正しきお寺で、映画「ラストサムライ」のロケ地にもなった場所。JR姫路駅からバスに揺られて30分、そこからロープウェーで15分という場所に、「仏教のテーマパーク」ともいうべき巨刹が建立されている。この円教寺で行われた「にじのわまつり」は主催者である姫路市の雑貨屋「Itumo」さんが「自分好みのイベントにしたかった」ことから出店する店はすべて「体と環境に負荷がかからない」ものを扱うフード店や雑貨店でまとめているのが特徴。そしてこのイベントの目玉が、この抜群のロケーションで行われる朝崎郁恵さんのライブだった(ちなみに前年のライブはハナレグミクラムボン

 一曲ごとに解説をしながら唄う朝崎さんの歌声が境内にこだまする。会場に訪れた大勢の人々がその声と島唄の調べにじっと耳を傾け、ラストの「六調」ではあいにくの小雨ながら、自然と観衆の踊りの輪ができて盛大のうちにライブは終わった。近年の元ちとせや中孝介の活躍もあり、「大和んちゅ」の中にも「島唄」が認知されて来た事を実感する瞬間だった。



 その「奄美島唄」を語るとき、欠かせない存在がいる。「奄美アウトサイダー」といわれる里国隆そのひとである。大正8年、奄美北部の笠利町崎原に生まれ、生後8ヶ月の時に失明*1し、地元でも有数の唄者であった祖父・赤坊に島唄の手ほどきを受け、17歳で家を出てからは竪琴を携え沖縄・奄美の各地を放浪しながら「路傍での唄」に一生を捧げた。

 本作「黒声」はその里国隆の三線での演奏による島唄を中心に、生前に収録された語りと彼の生い立ちやエピソードを収めたルポ「野ざらしの人」*2など48Pにおよぶブックレットからなる。またボーナス映像として映画「あがれゆぬはる加那」のプロローグ「雨ぐるみ」が収録されている。これらの資料から里国隆の一生が時を経て鮮やかに浮かび上がってくる。

 盲学校がなく、就労年齢に達しても学校へ行けない自分を持て余し気味であった里は、ある日村にふらりと現れた樟脳売りの老人についていき家出をしてしまう。のちに彼のスタイルともなる竪琴もこの老人から作り方を聞き出し自作した物だという。そして昭和11年、樟脳売りの行商人として放浪の人生を歩み始める。戦中は奄美各地の駐営地を慰問して廻り、戦争が終わると基地建設に湧くアメリカ統治下の沖縄に渡り、路傍での島唄の演奏をつづける。「野ざらしの人」のなかには興味深いエピソードが紹介されている。

 珍しい竪琴と、盲目の青年の唄はアメリカ人にカルチャーショックを与えたようだ。国隆が店に入ると、ジュークボックスを止めて竪琴の演奏に耳を傾けたと言う。(中略)「まぁ、その頃の思い出で一番残っているということは、弾いておって歩いていると外人に呼び止められることね。カモーンって、呼び止められてね、それをあたしを呼んでるのかわからないでしょ。そうすると後ろから捕まえられてカモーンってね。一人がたかるとなると皆がそれに動員されて囲まれるってことですよ」(中略)彼の商売には人がいなければならなかった。大勢の人がいればいるほど、商売はうまくいった。ポケットには札束が増え、外人は彼を取り巻き、ついには彼はアメリカ兵に連れられてハワイにまで行ったという話がある。 (野ざらしの人より)


 戦後の混乱を沖縄で過ごした里は、昭和38年、ベトナム戦争前夜ともいうべき不穏な空気が立ちこめはじめ、米兵も以前のように陽気に騒ぐ事が無くなった沖縄を離れ、故郷奄美大島に戻る。その生涯で8人の妻がいたと言われる里は最後の妻となるイノ*3名瀬市の公営アパートに居を構え、昼は市内の永田橋市場付近の路上で樟脳を売り、夜は屋仁川通りの盛り場で流しをする、という生活だった。しかし、所帯を持ったところで生来の放浪の虫はおさまらず、またふらりと出かけた沖縄で照屋林助*4に出会い、照屋がライフワークとしていた「照屋コレクション」に里の島唄を録音する事となる。

 この「照屋コレクション」を聴き、里の唄に大きな衝撃を受けたのがルポライター竹中労*5だった。衰弱していく日本の諸芸の中に残る本物の芸を探し求めていた竹中は、里の野ざらしの声を本物と確信し、みずから里を訊ね、東京で行われる「琉球フェスティバル'75夏」への出演を依頼した。一部の知識人の間で里の評判は広まり、同じく日本の放浪芸に造詣の深い小沢昭一は里の「黒だんどう節」について「はいつくばって土下座したい歌だ」と評している。

 こうして本土での出演を果たした里は同時にテイチクでのレコード録音を行い、初めて奄美島唄を本土でレコーディングした人物となる。同時にライブも行い多くの人に里の歌声が届く事になったが、「俺はレコードを出しても有頂天にはならないよ」という言葉どおり、また奄美の路上での樟脳売りに戻っていく。そして昭和60年、沖縄ジァン・ジァンでのライブ後に体調を崩し、体験入居した老人ホームで66年の放浪の生涯を終える。

 本作に収められた里の「語り」では、みずからの放浪の人生、女性、島唄に抱く執念などが語られているが、どれも語り口が独特で彼の人となりが鮮やかに浮かび上がってくる。招かれて唄った尼崎・北大島民謡おさらい会では感極まって涙する里の模様が収められている。そしてユーモラスな一面も持っていた事が伺える。

この里国高をお招きいただきまして、なにぶん私としては心いっぱいの喜びとともに、こういう機会が俺みたいな者にもまずあったもんかねーと思ってホントに寝るも寝られず、嬉しい涙を持って喜んでおります。(中略)皆さんは今日は見に来られたんですか?聴きに来られたんですか?聴きに来られたんでしたらお隣近所のお耳まで借り受けまして、腹いっぱい収められてください! 「黒声」<語り・3>より


 奄美で育った私は生活の中にいつも島唄があったように思う。幼い頃、弟の手を引いて家へ帰る夕方の道すがら家々からは三線の音がしていた。祝い事があると誰かが三線を持ち出して島唄を唄うのが常であった。こういった環境で育ち島唄に慣れ親しんだ奄美の人々だけにとどまらず、多くの人を魅了する里国隆の「黒声」は紛れもなく後々の世まで語り継がれるべき存在であると思う。


「黒声(クルグイ)」

  1. 語り(1)「ずーと,村々を放浪しました。」
  2. こうき節
  3. しょんかね
  4. あがれゆぬはる加那
  5. 語り(2)「今は,根もない葉もないうたばかりだ。」
  6. わたしゃ
  7. かばしゃげ
  8. 天草
  9. 語り(3)「里国隆はインスタント・ラーメンではありません。」
  10. かんつめ節
  11. すわゆい節
  12. 六調
  13. 語り(4)「十七のとき,はじめて女を抱いた。」
  14. 缶詰節

ボーナス映像「雨ぐるみ」


里 国隆「日本最後のリアル・ブルースマン」

黒声

黒声

あがれゆぬはる加那

あがれゆぬはる加那

*1:その原因は腫れ物を治す為に行われた、焼いた銅貨を酢に漬けて全身に塗るという民間療法の際に微菌が目に入った事だと推測されている

*2:奄美の情報誌「Horizon」に4回にわたって連載された宮川勉氏の「野ざらしの人」に新たに発見された事実を加筆したもの。

*3:唯一里が入籍をした女性。彼女もまた目が不自由であった。

*4:戦後の沖縄県の娯楽・芸能をリードした、沖縄ポップカルチャーの第一人者。息子はりんけんバンドのリーダー・照屋林賢

*5:ルポライターアナーキスト、評論家。「夢野京太郎」「ケンカ竹中」「反骨のルポライター」などの異名を持ち、芸能界や政界に斬り込む数々の問題作を世に送り出した。