メメント・モリ。

 (2008年8月28日の日記より転載)
    

 夏休みも佳境に入って、恒例の「読書感想文」が未完成ということで大騒ぎ。まだ課題の本そのものすら決まっていない次女を連れて、近所のブック○フへ。

 彼女があれやこれやと探している間、ぶらーっと文庫本コーナーで立ち読み。最近あまり本を読んでないなぁ、と思いながら、中島らも筒井康隆あたりを物色して、スポーツ誌「ナンバー」から出ているドキュメントを探す。

 100円コーナーの下のほうに並んでるそれらの本の背表紙を眺めながら、棚の上のほうに目をやると、ある文庫本のタイトルが目に入ってきた。

 「死の名場面」ー。確か中学の頃に買って長い間(それこそ手垢にまみれるほど)愛読していた一冊。引っ越しの際にどこかにいってしまって、それから何度も思い出しては是非もう一度読みたいと願っていた一冊。状態も新品に近い。「おぉぉぉ」と声にならない声を上げ、それを持って迷わずレジへ。次女は高木敏子の「ガラスのうさぎ」。

 家に帰ってさっそく読む。うちの家ではその昔、一ヶ月に一回、親父が本を買ってくれるイベントがあり、それは小学校に入った頃から中学卒業まで続いた。内容に関しては親父はノータッチ。有り難いことに多少「大人向け」の本でも目をつぶって読ませてくれていた(と思う)。

 中学の頃に買ったこの本も、洋邦を問わず歴史上の偉人の「最期の死の場面」を描いたもの。「死」というものを実感しないまでも、初めて「死」というモノを「意識」し始めた年齢に、恐いもの見たさで読んだこの本は、強烈な印象を僕に与えた。

 キリスト、ナポレオン、ヒトラーマリリン・モンロースターリン宮本武蔵徳川家康川端康成芥川龍之介…と名だたる人物の「死」の場面が描写される。イメージ通りに敢然と「死」に立ち向かう者、ただただ静かに「それ」を受け入れる者、恐れおののき、惨めな姿を晒す者…、偉人といえども一人の人間、その「最期」は実に様々である。


 そして教科書には載らない「エピソード」もかなりある。

 例えば、ロシアの独裁者スターリンは暗殺を恐れるあまり、要塞のような自宅の中に全く同じ寝室を4つ作り、側近にもその日何処で寝るかを教えなかった。ある日就寝直後に脳出血を起こし、結局これが命取りとなった。

 世紀の美女スパイといわれたドイツのマタ・ハリは、フランスに捕らえられ銃殺刑を処されることとなった。12人の銃殺隊員を前にした彼女の最期の言葉は「みなさんどうぞ任務を果たして下さい。撃て!」だった。処刑後の検死の結果、命中していた弾丸は11発。みずから毅然とした態度で最期の命令を下した彼女の姿に感動した最年少の18歳の兵士が、わざと彼女の頭の上を狙ったのだった。

 面白いのは、弥次さん喜多さんでおなじみの「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九。69歳という、当時としては大往生を成し遂げた一九は、死ぬ間際に枕元へ弟子を呼びいいつけた。「俺はもうすぐ死ぬが、死んでも湯灌などするなよ。着物もこのままでいい。棺桶に入れてすぐ焼き場へ持っていけ。かならず火葬にするんだぜ」ー。日ごろ師匠の奇行には慣れていた弟子たちは、遺言通り火葬場へ。ところが窯に火が入った途端、「ドドーン」というけたたましい爆音とともに、棺から火柱が上がった。一九は死ぬ前に、わざわざ自分の体中に花火を巻き付けていたのだった。死してなお、野辺の送りにきてくれた人たちへのサービス精神、恐るべきユーモア作家の真骨頂である。

 この本を熱心に読んでいた頃からかなりの年月が経って、自分自身の「死生観」もかなり変わってきた。肉親や大事な人たちとの別れを何度も経験して、ある程度自分の人生に対しての責任や覚悟も身に付いたと思う。その経験を経てから読むこの本は、またひと味違った魅力を持っていた。同じような内容の山田風太郎著「人間臨終図巻」などに対する書評などでも、「死」に関して取り上げること自体を「タブー」として避ける場面も見られるけど、より良い「死に方」を知ることは、「いい生き方」のヒントになることは間違いない。これは今のところ自分の経験からしてまず間違いない。

 しかし、想い出の一冊、百円均一コーナーの端で、半額の50円だった。ちょっと情けなかった(苦笑)

"Dance Me To The End of Love" Leonard Cohen